駅とともに発展してきた街“希望が丘“の誕生と、相鉄線沿線の歴史・未来をレポートします!
「二俣川」駅に近い希望が丘エリアは、戦後の混乱期から立ち上がり、相鉄線沿線の中でも早い時期に良質な宅地開発が進められてきました。相鉄線沿線の歴史の変遷に想いを馳せながら、周辺の再開発や希望が丘エリアの未来まで、実際に「希望ケ丘」駅周辺を辿りながら魅力を探っていきます。
「希望ケ丘」駅周辺の歩み
相鉄線沿線の開発の先駆けとして、「希望ケ丘」駅が開業したのは1948(昭和23)年のことです。横浜市と神奈川県央部を結ぶ相模鉄道は、人口増加が見込まれる沿線住民の輸送を担うことが期待されていました。
その先駆けとして、1947(昭和22)年からの2年間で「二俣川」駅から「三ツ境」駅間に計130戸の住居が建設されました。そして1948(昭和23)年の売り出し開始に合わせて、“明るい未来を目指す”という願いを込めて、「希望ケ丘」駅が開業したのです。
高校の誘致などにより、人口が増加
開業当時の「希望ケ丘」駅周辺は、開発が進められていた北側に対して南側はホームの脇まで田園風景が広がるなど、店舗は1軒もなかったそうです。そんな南側エリアの発展を目指し、1949(昭和24)年に「神奈川県立横浜第一高等学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)」を誘致。現在では、MARCHの合格者数で全国有数の実績を誇る進学校として知られています。
また、同校以外にも誘致が進んだことで人口が増加し、小学校、中学校が増えたことで教育環境がより充実した街となりました。一時期、「希望ヶ丘小学校」の児童数は2,000人を超えたこともあったそうです。
屈指の進学実績を誇る
県立高校
1957(昭和32)年から
街を見守る
人口増加にともない、希望が丘の街も発展
1954(昭和29)年から1961(昭和36)年にかけて、相模鉄道や横浜市などによって分譲住宅が整備され、人口も増加していきます。1965(昭和40)年には「希望ケ丘」駅の1日あたりの乗降者数が23,000人になりました。同駅の南口から歩いてすぐのところには相鉄グループの「そうてつローゼン 希望が丘店」があるほか、街の歴史とともに営業しているお店もあります。
50年以上の歴史を
誇ります!
日々の暮らしを
支えます
新線の開通で都心や東海道・山陽新幹線と直結、ますます便利になる希望が丘エリア
2019(令和元)年は、相鉄線沿線住民にとって大きな年となりました。相鉄新横浜線が「羽沢横浜国大」駅まで開通し、JR線との直通運転が開始。開業以来、初の都心乗り入れが実現する形となり、「希望ケ丘」駅からも「武蔵小杉」駅や「新宿」駅にダイレクトアクセスできるようになりました。
2023(令和5)年には、相鉄新横浜線が「新横浜」駅まで延伸しました。東急新横浜線との直通運転も開始し、東急東横線経由で「渋谷」駅、東急目黒線経由での「目黒」駅、さらに地下鉄各線に乗り入れが可能となり、「大手町」駅、「永田町」駅ともつながりました。
渋谷や新宿に直結!
新幹線にも
スムーズな乗り換え
「希望ケ丘」駅周辺の将来像
横浜市都市計画マスタープランによれば、「希望ケ丘」駅周辺では、“駅周辺の賑わいを確保しながら鉄道事業者と連携し、南口駅前広場の再編を進める”といった趣旨の記載があり、今後、住環境を向上させるための再開発が期待されます。
また、「希望ケ丘」駅のすぐ近くで60年にもわたり営業を続けてきた「希望が丘ゴルフセンター」が2024(令和6)年12月で営業を終えました。跡地にはさらに宅地が開発される予定で、駅周辺の更なる発展も期待できます。
将来的な再開発も
期待されます
さらなる再開発が期待される相鉄線沿線と希望が丘のまち
希望が丘エリアのある旭区と瀬谷区にまたがる「旧・上瀬谷通信施設跡地」では、東京ディズニーリゾートやユニバーサルスタジオジャパンと同規模のテーマパークとも言われる「KAMISEYA PARK(仮称)」の建設が進められています。テーマパーク・駅前・公園隣接の3つのゾーンで構成され、2031(令和13)年に完成する予定です。規模の大きさもさることながら、“ワールドクラスの次世代型テーマパーク”というコンセプトを聞くと、今から楽しみで仕方ありません。
発見ポイント!
- (1)新旧の魅力が入り交じる相鉄線沿線の魅力!
- (2)東京都心に直結するようになり一気に便利に!
- (3)工事が始まっている「KAMISEYA PARK」にも期待
駅とともに発展してきた街“希望が丘“の誕生と、相鉄線沿線の歴史・未来をレポートします!
所在地:神奈川県横浜市旭区