茅ヶ崎東海岸南CHIGASAKI areaguide

特集レポート

温暖な気候で別荘地として発展。茅ヶ崎の歴史散策

江戸時代は農村地帯だった茅ヶ崎。明治時代には「茅ケ崎」駅開業を機に別荘が建てられるようになり、保養目的の海水浴場もできました。昭和に入ると行楽客が増え、戦後はサーフィンを楽しむ人々が増加。やがて湘南サウンドと呼ばれる音楽が広まり、人気は不動のものに。そんな茅ヶ崎の史跡や名所を巡り、茅ヶ崎の成り立ちを振り返ります。

松や梅が植えられた「松籟庵」の庭園
松や梅が植えられた「松籟庵」の庭園

「茅ヶ崎」駅周辺 旧東海道が通っていた江戸時代の名残

江戸時代、「東海道五十三次」の「藤沢宿」と「平塚宿」の間にあった茅ヶ崎は、旅人や人足、かごかきが休息する「間の村」として栄えました。茅ヶ崎は日本橋から14里目に当たり、「茅ヶ崎」駅の北側には今もそのことを示す「茅ヶ崎一里塚」が残っています。昔は1里ごとに築かれていた塚も道路の拡張や改修でほとんどが壊され、大変貴重なものとなっています。「間の村」の中でも特に栄えたのが南湖周辺。茶屋だけでなく旅籠もあり、その後は商店が多くできてこの辺りの商業の中心地となりました。その頃に創業した「田村呉服店」は駅の北側に移転しましたが、「田村屋」として今も営業しています。

「茅ヶ崎一里塚」
「茅ヶ崎一里塚」

「田村屋」
「田村屋」


駅北西 歌川広重も描いた富士見スポット

茅ヶ崎の風景は、歌川広重の『東海道五十三次名所図会』にも登場。江戸から京都へ向かって歩くと富士山は右側に見えますが、南湖の鳥井戸橋付近では道が右側にカーブするため左側に見えます。珍しいことから「南湖の左富士」として描かれました。今も国道一号線沿いにある鳥井戸橋の上から富士山を見ることができます。

「左富士通り」を挟んで「南湖の左富士之碑」の向かい側にあるのが、平安時代に起源があるという古社「鶴嶺八幡宮」の大鳥居。かつて戦乱で荒廃した神社を復興するために松の木を植えたのが始まりで、約760mにわたって続く参道は今も見事な松並木となっています。現在の木は当時のものではありませんが、往時の面影を偲ぶことができます。また、社殿の手前右側にある大イチョウは、平安時代に源義家が戦勝を祈願して植えたという伝説があり、県の天然記念物に指定されています。

「関東の富士見百景」の
ひとつ

「南湖の左富士之碑」
「南湖の左富士之碑」

天然記念物に
指定されています

参道の松並木
参道の松並木


美術館や日本庭園のある「高砂緑地」は市民の憩いの場

駅方面から海岸に向かう通りは5本。茅ヶ崎にゆかりのある人物や団体などにちなんだ名称を冠したユニークな通り名があるのが特徴です。「サザン通り」は、「茅ケ崎」駅の南北をつなぐ地下通路「茅ヶ崎ツインウェイブ」からサザンビーチへと続く通りで、周辺には約70店が加盟する「サザン通り商店街」が広がっています。「茅ヶ崎ツインウェイブ」から300mほど南下して左折すると、「高砂通り」沿いに「高砂緑地」があります。「オッペケペー節」で知られる俳優、川上音二郎が明治時代に居を構えた場所で、松の木立の中に住居跡を示す井戸枠が残っています。大正時代に元日本化薬・会長の原安三郎氏の別荘となり、1984(昭和59)年に市が購入。「高砂緑地」として開園しました。緑地内には「茅ヶ崎市美術館」や平塚らいてうの碑、茶室「松籟庵(しょうらいあん)」などがあります。「松籟庵」がある庭園は梅の名所で、毎年2月には「梅まつり」が開かれます。

散策にぴったりの緑地公園

「高砂緑地」
「高砂緑地」

茶会などのイベントも開催

「松籟庵」
「松籟庵」


小津安二郎氏が脚本を執筆した部屋が今も残る「茅ヶ崎館

サザン通りに戻って800mほど南下し、お洒落な美容室「ru-ka.」がある六差路のひとつを左に入り、住宅街の中を進んで行くと老舗旅館「茅ヶ崎館」があります。「茅ヶ崎」駅の開設が決まった1896(明治29)年頃から別荘が建てられ始め、中海岸三丁目はドイツ人の別荘が点在したことから「ドイツ村」と呼ばれました。明治から大正にかけて茅ヶ崎には20人を超える外国人が住み、助言や寄付、海岸の植林など地域の発展に影響を与えました。現在も営業を続ける旅館「茅ヶ崎館」は1899(明治32)年創業。映画監督の小津安二郎氏が『晩春』や『東京物語』などの脚本を書き上げた部屋が、今も残されています。

国指定の有形文化財

「茅ヶ崎館」
「茅ヶ崎館」

今も立派な屋敷が
目立ちます

「茅ヶ崎館」周辺の風景
「茅ヶ崎館」周辺の風景


松の防風林を左に見ながら、海岸を東へ

サーフィンや海水浴で人気のサザンビーチに到着!東に進むと、サザンのCDジャケットにもなった有名なモニュメント「茅ヶ崎サザンC」があります。右側に立つことで「C」の切れ目が繋がって円(縁)になることから縁結びスポットとしても有名ですよね。海を眺めながらさらに歩くこと7~8分。海岸を後にして国道川に移動すると、茅ヶ崎駅南口入口交差点に出ます。ここから駅方面に延びているのが「雄三通り」。かつて通り沿いに加山雄三氏の父である上原謙氏の旧居があったことから命名されました。さらに600mほど東には、「茅ヶ崎第一中学校」があることから命名された「一中通り」があります。戦後まもない1947(昭和22)年創立の学校です。

「茅ヶ崎サザンC」
「茅ヶ崎サザンC」

加山雄三氏や桑田佳祐氏の母校

「茅ヶ崎第一中学校」
「茅ヶ崎第一中学校」


まっすぐ延びる「ラチエン通り」は江戸時代の境界線

「一中通り」の300mほど向こうを走るのが「ラチエン通り」。江戸時代、漁業権を巡る村同士の争いを受けて、幕府が現在の「TOTO」付近と「えぼし岩」を結んだ直線を村の境界と定めたことから作られました。だからきれいな直線の道路なんですね。見通しの良い通りからは、今も「えぼし岩」を見ることができます。1932(昭和7)年頃に松が丘一帯の土地を所有していたドイツの実業家、ルドルフ・ラチエンが、地域と日本文化への敬愛を込めて、自宅から海に至る道に桜の木を植えたことが名前の由来です。

気候の温暖な景勝地として高度成長期に開発が急速に進んだ茅ヶ崎では、1965(昭和40)年、俳優の上原謙氏や加山雄三氏らが共同オーナーとなり、国道134号沿いに「パシフィックホテル茅ヶ崎」を建設。多くの娯楽施設がある海辺の高級リゾートホテルとして注目を集めました。現在は、跡地に立つマンション前の公園名が、その存在を伝えています。

道の中央から見えます

ラチエン通りから見た「えぼし岩」
ラチエン通りから見た「えぼし岩」

すべり台のある小さな公園

「パシフィック公園」
「パシフィック公園」


ラチエン通りと開高健氏

駅が開業すると、政府要人や学者、著名人などの別荘が相次いで建てられ、文化の集積地としても発展しました。ラチエン通りを駅方面に向かうと、左手に「茅ヶ崎市開高健記念館」があります。小説家の開高健氏が1974(昭和49)年から晩年まで過ごした邸宅です。10分ほど歩いた先には「肉の老舗 香川屋分店」があり、開高健氏がよく食べていたというメンチカツが今でも人気です。さらに3分ほど先には開高健氏が通った「そば処 江戸久」があり、店内には氏のお気に入りだった席が貼り紙で紹介されています。

この辺りから
「えぼし岩」が見える

「茅ヶ崎市開高健記念館」
「茅ヶ崎市開高健記念館」

開高健氏が通った店として
有名

「そば処 江戸久」
「そば処 江戸久」


発見ポイント!

「鶴嶺八幡宮」の大鳥居
「鶴嶺八幡宮」の大鳥居

  • (1)江戸時代から景勝地として知られていた!
  • (2)茅ヶ崎と日本を愛するドイツ人たちの協力によって発展した
  • (3)鶴嶺八幡宮や高砂緑地など、海岸に限らず松の木が多い

温暖な気候で別荘地として発展。茅ヶ崎の歴史散策
所在地:神奈川県茅ヶ崎市 

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